先日、映画「2人のローマ教皇」を観ました。
教皇ベネディクト16世と、
次に教皇となるベルゴリオ枢機卿との対話を描いた作品です。
立場も性格も正反対の二人が語り合い、
過去を懺悔し、少しずつお互いを理解していく。
重厚なテーマながら、ユーモアを交えた軽妙なやりとりもあり、
とても心に残る映画でした。
次に教皇となるベルゴリオ枢機卿との対話を描いた作品です。
立場も性格も正反対の二人が語り合い、
過去を懺悔し、少しずつお互いを理解していく。
重厚なテーマながら、ユーモアを交えた軽妙なやりとりもあり、
とても心に残る映画でした。
印象的だったのは、作中で繰り返し語られる
「神の声が聞こえなくなった」「神の声が聞こえた」
という言葉です。
「神の声が聞こえなくなった」「神の声が聞こえた」
という言葉です。
この場面を観ながら、私は法華経の「寿量品」を思い出しました。
寿量品には、次のような趣旨が説かれています。
お釈迦さまは始まりも終わりもなく、永遠に存在している。
しかし、あえてその姿を現さない。
なぜなら、人々が自ら仏を求め、善行を積み、
心を正していくきっかけになるから。
心を正していくきっかけになるから。
柔和で正直な人、功徳を積む人はやがて仏に出会い、
真理に触れることができる。
真理に触れることができる。
つまり「仏が見えない」という体験そのものが、
人を内省や努力へと導く働きでもあるのです。
人を内省や努力へと導く働きでもあるのです。
映画の中の「神の沈黙」も同じように感じられました。
それは神が遠ざかったのではなく、むしろ人が自らを見つめ、
懸命に歩もうとするのを待っているように思えます。
懸命に歩もうとするのを待っているように思えます。
日々の生活や仕事の中でも、精いっぱい考え、行動した結果として、
思いがけない助けや成果を得ることがあります。
そうした瞬間に私たちは仏様に気づき、
安心や感謝の心が湧いてくるのではないでしょうか。
思いがけない助けや成果を得ることがあります。
そうした瞬間に私たちは仏様に気づき、
安心や感謝の心が湧いてくるのではないでしょうか。
神や仏は、常に私たちを見守る存在です。
しかしその存在は、目に見えて知覚できるわけではありません。
不在を感じた時には、自分を省みて努力を重ねる。
その過程の中に、存在を実感できるのだと思います。

和歌山県新宮市にあるお寺 日蓮宗本廣寺