先日、母方の祖母が亡くなり霊山浄土に旅立っていきました。
生前中、また葬儀におきましてお世話になりました皆様に感謝申し上げます。
祖母は足が衰えるまでは、何十年も毎日お寺へお墓参りに来て、更には毎月一日にあるご祈祷、お正月からお会式まで年中行事にも欠かす事なくお参りした人でした。
葬儀は家族葬でなく一般葬で、お寺でやって欲しいという遺言があったので、その通り行われました。
信仰心に篤く、色んなことをしっかりとする人だったので、葬儀もきちんと行い、お世話になった皆様と最後のお別れをしたいという事だったのでしょう。
また、「死んだ事は別に隠す事ではない」とも言っていたそうです。
最近は家族葬が主流になり、亡くなった事を知らせる範囲が限定的という事も増えました。
祖母は人との付き合いを大切にしていたので、近年の内々に行われる葬儀のあり方に寂しさを覚えていたんだろうなと思います。
家族葬には家族葬の良さがありますが、本当に家族葬で良いのか、ちょっと考えてみるべき点はあるように思います。
ある人と話していると、葬儀の話題になって
「すごくお世話になったし交流も親しくしていた人が亡くなったけど、家族と職場の人だけで葬儀をするらしくて、自分は参列を諦めた」と寂しそうに言っている事がありました。
自分の身に置き換えて、親友や恩人が家族葬だったらどうでしょう・・・?
家族葬となると、家族以外の方は参列して良いかかなり迷うようですね。故人と親しい人や関係が深い人であれば、家族でなくても参列する、という事が多いようですが、遺族と面識がない場合などはハードルが上がるでしょう。
「家族葬」とすると参列者の線引きになってしまう面があり、そうなると「故人と付き合いがあったけれども、参列を遠慮してお別れする機会が失われた」という事も起こっているだろうと思います。
葬儀は残された者が心の整理をし、収拾をつける場でもありますから、それを出来ない人がいる可能性は考えどころかと思います。
最後にお互い「お世話になりました」「ありがとう」で死者は旅立つ。生者は見送る。というのは必要ではないでしょうか。
ただまあ、家族葬は選択肢として必要ですね。
高齢化が進んで葬儀に参列する人がいないとか、送る側も高齢で葬儀の対応が出来ないとか、その時の事情など様々ありますから。
また家族葬か一般葬かで葬儀屋さんの支払い額が変わるようなんで、お金の問題も大きいでしょう。
逆にそれらの問題がないのであれば、人とのつながりを最後まで手間をかけて大切に出来ているか?という事は意識したいものです。
人間、自分だけで自立して存在する事は出来ないというのが仏教の基本的な考え方です。多くの人とのつながりの上で私たちは生かされています。これを忘れた結果行きつくのは「自分さえ良ければ」と自分の利益追求に汲々とする社会です。折に触れ人とのつながりを感じる機会を持つ事は大切なのではないかと思います。
祖母の葬儀では、二百数十人もの方が焼香・参列してくださいました。これだけ多くの人に故人も自分たちもお世話になってるんだ、という事を目の当たりにし、葬儀の場は自分の依って立つところ、普段は見えない人とのつながりを可視化する大切な機会だと改めて感じました。
和歌山県新宮市にあるお寺 日蓮宗本廣寺
生前中、また葬儀におきましてお世話になりました皆様に感謝申し上げます。
祖母は足が衰えるまでは、何十年も毎日お寺へお墓参りに来て、更には毎月一日にあるご祈祷、お正月からお会式まで年中行事にも欠かす事なくお参りした人でした。
葬儀は家族葬でなく一般葬で、お寺でやって欲しいという遺言があったので、その通り行われました。
信仰心に篤く、色んなことをしっかりとする人だったので、葬儀もきちんと行い、お世話になった皆様と最後のお別れをしたいという事だったのでしょう。
また、「死んだ事は別に隠す事ではない」とも言っていたそうです。
最近は家族葬が主流になり、亡くなった事を知らせる範囲が限定的という事も増えました。
祖母は人との付き合いを大切にしていたので、近年の内々に行われる葬儀のあり方に寂しさを覚えていたんだろうなと思います。
家族葬には家族葬の良さがありますが、本当に家族葬で良いのか、ちょっと考えてみるべき点はあるように思います。
ある人と話していると、葬儀の話題になって
「すごくお世話になったし交流も親しくしていた人が亡くなったけど、家族と職場の人だけで葬儀をするらしくて、自分は参列を諦めた」と寂しそうに言っている事がありました。
自分の身に置き換えて、親友や恩人が家族葬だったらどうでしょう・・・?
家族葬となると、家族以外の方は参列して良いかかなり迷うようですね。故人と親しい人や関係が深い人であれば、家族でなくても参列する、という事が多いようですが、遺族と面識がない場合などはハードルが上がるでしょう。
「家族葬」とすると参列者の線引きになってしまう面があり、そうなると「故人と付き合いがあったけれども、参列を遠慮してお別れする機会が失われた」という事も起こっているだろうと思います。
葬儀は残された者が心の整理をし、収拾をつける場でもありますから、それを出来ない人がいる可能性は考えどころかと思います。
最後にお互い「お世話になりました」「ありがとう」で死者は旅立つ。生者は見送る。というのは必要ではないでしょうか。
ただまあ、家族葬は選択肢として必要ですね。
高齢化が進んで葬儀に参列する人がいないとか、送る側も高齢で葬儀の対応が出来ないとか、その時の事情など様々ありますから。
また家族葬か一般葬かで葬儀屋さんの支払い額が変わるようなんで、お金の問題も大きいでしょう。
逆にそれらの問題がないのであれば、人とのつながりを最後まで手間をかけて大切に出来ているか?という事は意識したいものです。
人間、自分だけで自立して存在する事は出来ないというのが仏教の基本的な考え方です。多くの人とのつながりの上で私たちは生かされています。これを忘れた結果行きつくのは「自分さえ良ければ」と自分の利益追求に汲々とする社会です。折に触れ人とのつながりを感じる機会を持つ事は大切なのではないかと思います。
祖母の葬儀では、二百数十人もの方が焼香・参列してくださいました。これだけ多くの人に故人も自分たちもお世話になってるんだ、という事を目の当たりにし、葬儀の場は自分の依って立つところ、普段は見えない人とのつながりを可視化する大切な機会だと改めて感じました。
和歌山県新宮市にあるお寺 日蓮宗本廣寺