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いのちの肯定、多様性についての記事は今回で終わりです。

前回記事で、多様性は認められているけれども仏になる事を目指すべき事を書きました。

いかに成長し仏になるか考えると、いかに生きるか、何の為に生きているのか考えざるを得ません。
前の記事に書いた朝ドラの主人公は人の役に立つ事を意識していますが、人の役に立つ事は人本来の欲求という研究結果があるそうです。
実は法華経に私たちは人の役に立つ為、人を救う為に生まれてきた事が書かれています。

已(すで)に曽(かつ)て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍(あわれ)むが故に、此の人間に生ずるなり

衆生を哀愍(あいみん)し願って此の間に生れ

と書かれていまして、未だ苦しむ人たちを哀れに思う慈悲の心からまた人の世界に願って生まれてきたというのです。

ただその目的を忘れて欲や悩みに振り回されているから苦しんでいるわけで、本来の目的、願いを思い出して生きればその苦しみから脱する事が出来るともいわれます。
そうした意味で人の役に立つというのは本来の願いで人生を輝かせる上で重要なのです。

そして例えば体が不自由で動かせない人であってもその人の役割というものはあるわけで
「なーんの役に立たなくったっていいのよ」
「なーんも関係ねえように見えるもんが何かの役に立つ」
というドラマのセリフや

詩の「生命は」の
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
~中略~
 私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

の部分は、人の役に立つとしても目に見える形とは限らないし自覚があるとは限らない、というその辺の事を教えてくれているように感じます。

それぞれが違った存在で、しかも尊い者同士が関わり合っている世界です。
自分もみんなも、誰かの為の風になれる事を忘れてはいけませんね。

その上で今の自分の使命や、目の前の事に懸命に努める事が仏への道、幸せへの道なのでしょう。