開かずの間の片付けを進めております。
開かずの間というか・・・
物置状態で開けられずの間というか・・・。

その中には普段はいらないけども、
大きな行事の時に必要になりそうなものや、
これまでのお寺の歴史のように、
この先も続いていく事を考えると
置いておく方が良さそうな書類や物などがあり、
捨てるかどうか悩みます。

使ってないから不要とは軽々に言えないんですよね。
近視眼的にいらないと思って捨てたものが、
後世の人からすれば「あれが残っていれば」なんて事もあるわけで。
私はお寺の歴史の中の一時代の担当をしているだけで、
置いてある物はお寺の物であって私の物ではないと思うと
悩ましいです。

ただ、そうでないものまで積もり積もって
片付けるに至るのですが、
「こんなもの置いといてどう使えると思ったんだ(憤怒)」
というものも多く、こまめなお掃除が大事ですね。

掃除は仏道修行の基本だといわれます。
心のあり様が環境に表れてくるので、
いつもキレイに掃除してなきゃいけないと
修行の時に教わりました。
逆にいえば、掃除していつもキレイな状態に保つ事が
心を整える事につながるという事になります。

ところで掃除で悟りに至った人をご存じでしょうか。

周利槃特(しゅりはんどく・すりはんどく)
(チューラパンタカ)
というお釈迦様の弟子がおりました。

この方は物覚えが悪く、自分の名前すら忘れてしまうほどで、
托鉢の時に困らないよう名前を書いた札を
背中に提げていたといいます。
あまりの愚鈍さから弟子をやめる話まで出るのですが、
その際、お釈迦様は
「自分が愚かである事を知っている者こそが
本当の智慧ある者なのだ」と諭して、
「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除をするよう
指導しました。

それから来る日も来る日も「塵を払い、垢を除かん」
と唱え掃除を続ける周利槃特。
何年も愚直に言われた事を続け、ある日の事。
塵や垢が溜まって汚れるのは人の心も同様である、
心をこそ清めねばならない、と気づいた事から
悟りの境地に至ったと言われます。

頭の良さや知識によって悟れるってわけじゃないんですね。
些細なきっかけや言葉によって悟りに至る事もある、
頭の良し悪しに関わらず誰もが平等に悟る事が出来る、
その為には素直さや継続が大切だと分かるお話です。

自分の愚かさを知る者こそ智慧者だという
お釈迦様の言葉も心得ておきたいところだと思います。
本当は何も分かってないのに、自分は賢く
道理を分かっているつもりになってしまうのが人の常です。
小賢しさや半端な知識が真の理解の妨げになり、
正しく物事が見れなくなってしまう事もあります。


人の心に溜まる汚れは貪瞋痴(むさぼり、いかり、おろか)の三毒。
しかも自分の気づかないうちにそれらで心は汚れると
周利槃特は気づいたといいます。
キレイにしてもすぐに汚れてしまうので
掃除をし続けなければならないように、
心も知らないうちに乱れ、汚れてしまうのです。
だから気をつけて、磨き続ける必要があるんですね。

ちなみに周利槃特は天才バカボンの
レレレのおじさんのモデルになったと言われています。

更にちなみにですが、
周利槃特の死後、
お墓からよく分からない草が生えてきたそうです。
生前自分の名前を覚えられず
名前を書いた札を背負っていた事から、
その草は「名」を「荷(にな)う」と書いて
「茗荷」と名付けられた、という説があります。
茗荷を食べ過ぎると物忘れをするという
俗説はここからきているそうです。

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和歌山県新宮市にあるお寺 日蓮宗本廣寺